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夏の思い出は毎年累積されていく一方でそのいくつかは忘却のかなたへ去っていくが、1945年の夏休みの思い出は当然忘れられるものではない。その思い出の一つは勿論その前後の体制の変革を中1が経験したことであるが、もう一つ敗戦直前に私は遊びで旅行をした。それでその1で戦争体験でなく思想性のない遊び体験であるがその旅行のことを、その2で体制の変革をどう感じたかを書くことにする。
国民学校6年で集団疎開。1945年3月1日、6年生だけ受験のため帰京。その直後、東京大空襲、深川にいた8人家族の親戚は母親、長女、末っ子の3人が焼死。「もう一緒に死のうよ」と言う母親を振り切って、二人の国民学校生が焼け焦げた防空頭巾で歩いて荏原の私の家に転がり込んできた。8中(現小山台高校)の入試は取りやめ、受験者全員合格となり本当だったら受かるはずのない私も8中生となり鉄研をやり始めた。疎開中、どういうわけか電車に乗れもしないのに鉄道マニアになっていた。当時珍しい共稼ぎでやっと建てたであろう築5年の西洋館も5月には焼失、「ああ燃えちゃうー」と嘆いていた母。長兄は学徒動員で国家権力に拉致されて集合場所の泉岳寺の闇の中に消えていき広島へ。
1週間ぐらいの短い夏休みが来ると、私は断固として福井県武生(現越前市)の母の実家に行くと言い出した。ただ汽車に乗りたいだけで。今から考えると不思議なのだが、父母、次兄とも空襲下の中1の初めての一人旅に何の反対もせず、武生の叔父も歓迎してくれた。逓信省に勤めていた父は軍務公用でしか発行されない武生までの長距離切符を持ってきてくれた。日常が戦争なので遊びに行くのも不思議ではなかったか。母はかなりの額の現金を胴巻きに入れて武生の叔父に持っていけという。帰ってこなくていいということだったかもしれないが、当の本人は何も考えてなくて汽車に乗れることが嬉しいだけだった。
さて朝の東京駅、念願の汽車が入ってきた。その頃は、もう普通列車しか走ってなくて、機関車も急行旅客用のEF53や流線型のEF55でなくて貨物用のEF10だったか、ちょっとがっかりした覚えがある。機関車のすぐ後ろの1両目のスハフ32はグラマンの機銃弾を受けて穴だらけだった。下手なグラマンが機関車を狙ったのが1両目にあたるのだ。さすがに1両目に乗るのはやめて5両目ぐらいにして幸運にも座れた。快調に走っていたのが静岡県にはいるとやたら停まるようになった。車掌が来て前方で鉄橋が艦砲射撃を受けているという。越すに越されぬ大井川も徐行でなんとか越えてやっと掛川まで来たら、グラマンが来襲するので列車の下にもぐり込めと言われ車輪の下に入ったとたん、バリバリバリと機銃掃射の音。車輪のところは床が薄くて貫通するといわれていたのであわてて蓄電池の下のわずかな隙間に。むこうからもぐってきたきれいなお姉さんと鉢合わせ。「ここなら大丈夫ね」と訊かれ、生まれて初めて女に頼られて中1といえども男、自信はなかったが「ええ大丈夫ですよ」と答えるしかない。
艦載機の機銃掃射を受けたのはこの時が2度目であった。学校は空襲が激しくなってからも休みでなかったが、空襲警報となると授業打ち切りだった。みんな今日は空襲がないかなと期待したものだ。その日も空襲警報で授業打ち切りとなり徒歩で帰宅途中、いきなりバリバリバリとやられた。道路わきの他人の家の防空壕に飛び込んだが本当はそれでは遅い。当たらなくて幸いだっただけである。機銃掃射の恐怖は半端ではない。それで「禁じられた遊び」や「ガラスのうさぎ」は2度と見る気がしない。戦争は国家権力がそのときの最高レベルの軍事技術を使った最悪のテロである。テロをやる側も時には齟齬があって、その時のグラマン1機は立会川の川べりを歩いていた母娘を狙って電柱に引っかかって立会川の真ん中に墜落。見物に行ったら完全に屑アルミになっていて操縦士は航空服と髪の毛がふわふわしているだけ。物理で習っていた慣性の法則〜というより戦争のすさまじさ、めちゃくちゃになったエンジンの中に細かくなってめり込んだらしい。
さて話を旅行の方に戻して、グラマンがやっと去った隙に駅から離れた蝉時雨の墓地に避難、のんびりと何時間たったかやっと汽車が出るというので駅に戻った。中1の鉄道マニアはその頃まったく女に興味がなくて、鉢合わせをしたきれいなお姉さんのその後のことは全然記憶にない。沼津で付け替えたこれも貨物用のD51は無事だった。ところが艦砲射撃を受けた天竜川の鉄橋がわたれないので東京に戻るという。列車は戻る途中トンネルの中に艦載機を避けてかなりの時間避難。酸欠と暑さで朦朧とした頭で、「いまさら東京に戻って父が苦労して手に入れてくれた切符を無駄にするなんてとてもできない。富士から身延線、中央本線、篠ノ井線、信越本線、北陸本線経由で武生に向かおう」と考えた。それだと垂涎の的である身延線の2扉クロスシート車モハ93(国有化で富士身延鉄道の私鉄車を国鉄に編入した車両、天井の低いトンネルがあるので国電型より屋根が薄い特徴あるスタイル)に乗れるではないか。その頃電車のクロスシート車は、関西にはモハ43系、流電のモハ52系、近鉄のデ2200など結構あったが、関東では横須賀線のモハ32系以外はほとんどなくてモハ93には前から乗りたくていた。
夜遅くなって富士到着。身延線は身延止まりの最終。とにかく身延へ。幸運にも丁度モハ93だったがクロスシートには座れなかった。でもモハ93に乗れただけで満足だった。これがこの旅行最大の収穫だったらしく後は何に乗ったかトンと思い出せない。
薄暗い運転席の後ろの床にごろごろ、どこかの小父さんが「中1で空襲下の一人旅とはえらい、うちの子供に見習わせたい」とひどく感心していたが、こちらは遊びで旅行している非国民なので気が引けた。母が作ってくれた貴重なおにぎりは夏の暑さで饐えた状態で食べられなかったが、その小父さんはそれをみんな食べてしまった。身延から翌朝の始発に乗って甲府へ、それから乗換え乗換えで直江津から富山止まりの最終に乗って、また富山駅で夜明かし。富山駅前は数日前の空襲で焼け野原だった。食料はもうなく焼け跡に生き残っていた水道栓の水を飲んだだけだった。
十分に3日間、鉄道旅行を満喫させられたが、今の鉄道マニアにこんな旅を2度とさせてはならない。3日目の昼ごろ武生着、福井市は空襲を受けていたが、武生の人たちは小さな町だから空襲はないと高を括っていて、戦時下のようではなくのんびりとした別世界だった。2,3日東京では考えられない白米の食事で過ごした。久しぶりに従弟とも再会、毎日遊び暮らしたが、二人で置時計を分解したら元に戻らず動かなくなってしまい、この夏の記憶の固執となった。帰りの切符がこれまた簡単には手に入らなかったが、学校が気になってどうしても帰るという厄介な甥のために、地元の有力者の叔父は武生の駅長に話をつけて信越周りの大宮までの切符を買ってきてくれた。帰りは一回乗り換えただけですんなりと帰京。空襲や艦砲射撃下、JRならぬ国鉄はとにかく動いていた。大宮から借家のあった阿佐ヶ谷までの乗り越し料金は通常の3倍だったが大して高いと思わなかったような気がする。
旅行から帰って1週間ぐらいで敗戦。「玉音放送」を聴いて「これで特攻隊で死ななくてすむな」と不埒なことを考えていた。 |