◆ 今 月 の 一 句 ◆    2005.7月

                                                          大 井 恒 行 


 朝 顔 に あ り が と う を 云 う 朝 で あ っ た 。 


                                                        大 本 義 幸 

 つい最近、紛失していた『花綵列島』第5号「大本義幸特集」が出て来た。そこには、ぼくが大本義幸について約15枚の原稿を書いている。まったく忘れてしまっていた。実に人間の記憶なんていいかげんだ。23年前の事になる。さらに、資料のコピーによれば、大本義幸は15歳の時、ガリ版刷りの作品集「君とぼく」に「ちくしょう/石を投げたら空がなめた」という2行の詩を発表している。
 大本義幸は夭逝した攝津幸彦のかけがいのない盟友だった。また、坪内稔典らと「日時計」「黄金海岸」を経て、攝津幸彦、仁平勝、藤原月彦らとともに「豈」、さらには、ぬ書房版「現代俳句」に関わるなど、団塊世代以後の若い俳人たちに及ぼした影響は少なくない。
 しかし、その後、彼は東京から松山、さらに大阪に流れ、様々な苛酷な実生活上の苦難に遭う。そんなとき「生きているだけでも辛い、そんなものかもしれないにんげんなんて」とつぶやくこともあったのだ。酒の日々も終わり、昼夜をわかたず働いていたらしい。
 還暦前に、胃癌と咽頭癌の手術をした。声を失い、今は筆談だ。「死ぬまでにする10の事」(豈39号)の中に「散歩を趣味とする(てくてく生きる)」「癌では死なない(父、母、妹を癌でなくした)」と記す。
 「いままでは俳句を書いていなかった、これからはホントの俳句を書く」とも彼は言う。生きているだけでも辛いとつぶやいていた大本義幸は、いま、朝の目覚めとともに日々、何かに感謝しているのだ。一行の句の句点(。)がそれを強調していよう。「TOKYOは秋攝津幸彦死す」「霊魂に告ぐ古釘に異変ありと」「墓の裏にまわれば夕日暖かし」。
      1945年愛媛県生まれ。「子規新報」(’04年2月、102号)所収



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