◆ 今 月 の 一 句 ◆ 2005.2月
大 井 恒 行
憲 法 を 変 え る た く ら み 歌 留 多 で な い
鈴 木 六 林 男
「歌留多でない」は歌留多にはそうした札が無い、ということなのか。歌留多のような遊び事では無く「憲法を変えるたくらみ」は現実にあるんだぞ!おい!と言おうとしているのであろうか。一緒に発表された「ふたたびを俺達は死ぬ虎落笛」「為残(しのこ)りがあまりに多し畳替え」と合わせて読めば自ずと無念が漂って来る。昨年暮れの12月12日に逝去。享年85。いわゆる戦後俳句を代表する作家の一人であり、一貫して戦争というテーマを手放さず、その名・六林男(ムリオ)の響きのように、鈍重に、じっくり詠み続けた。第一句集『荒天』(昭和24年)には、有名になった「遺品あり岩波文庫『阿部一族』」「ねて見るは逃亡ありし天の川」「水あれば飲み敵あれば射ち戦死せり」の句がある。フィリピンのバターン島での戦闘で負傷し、その時の弾片を体内に残したままであった。その六林男の絶筆が掲句らしい。「俳句α」1月号に発表されたこの句には短いエッセイが付されている。「先の戦争のときは『京大俳句』の末席にいた。学業半ばにして中支の漢口に送られた。ーー中略−−三、四日おきにくる過剰勤務。人事担当の准尉はお前は死ぬと言った。死ぬのではない、日本の軍隊は合理的に殺そうとしたのだ。五十余年後の今、憲法を変えるたくらみがある。どうする」。その「京大俳句」は昭和16年に弾圧される。いわゆる新興俳句弾圧事件。六林男の師であった西東三鬼はその京大俳句弾圧事件のスパイだったという濡れ衣を着せられた。六林男はスパイ呼ばわりされた三鬼の汚名を晴らすために三鬼の遺族とともに名誉回復の裁判を起こし見事完全勝訴した(昭和58年)。
何度か鈴木六林男と会ったことがあるが、ビールをお猪口で飲むのは彼の癖だったようだ。うるさい親父のような、それでも、あの笑顔は忘れ難い。三橋敏雄が亡くなった時の偲ぶ会では、生き残っているのは俺と今にも死にそうな鬼房だなーと言っていたのを思い出す。そして、今はもう誰もいなくなった。六林男の頑固さは現俳壇にとって貴重な頑固さだったと思うばかりだ。僕はいま、その六林男から蛇笏賞のお祝いか何かのお返しに贈られた毛布にくるまって、寒い冬を過ごしいる。合掌。
1919年大阪府生まれ。「俳句α」(04年12・1月号)掲載
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