◆ 今 月 の 一 句 ◆ 2005.12月
大 井 恒 行
除 夜 の 湯 に 肌 触 れ あ へ り 生 く る べ し
村 越 化 石
化石(本名、英彦)は、1938(昭13)年、旧制中学4年生の時に身体検査で、ハンセン病の宣告を受け、退学。「病人宿」と呼ばれた東京、滝ノ川の宿に入った。約2年の後、戦時色の濃くなる中、米も砂糖も配給となり、やむなく群馬県草津「湯ノ沢」に移り住み、すぐに栗生楽泉園療養所に移った。現在もここに暮らしている。「箸すべりやすき癩の手秋の暮」と詠んでいるが、すでに片方の目は悪くなっていた。ハンセン病は病状が進むと失明し、やがて死に至る。号を「化石」としたのは、本名で投句したら誰だかがばれてしまい、家にも帰れず、社会復帰もできないとすれば、もはや、土の中に埋められたようなものだと、だから「化石」にしたと言う。
掲句は、ハンセン病の治療薬プロミンの出現によって、患者の人たちが生きる希望をもち始めた頃の作(’50年)である。両目の光りを失ったのは’70年頃、皮肉にもプロミンの副作用による目の炎症であった。
草津は温泉町で、湯畑から引いた温泉で10人位は入れる風呂が二、三箇所あって、当時、園には千人くらいいたが、病気が治り、一緒に入れなかったお風呂にも一緒に入って背中を流し合って入れるようになった。化石の師、大野林火は「小説には北条民雄など、名を成した人もいるが、俳句にはまだない、何の望みもなかった頃の人が頑張って作品を残したんだ。でも、これからは違う。あなたがたは、望みのある時代に俳句を作っているのだから、それを大事にしなさい」と励ましたという。その林火は、小説の北条民雄、短歌の明石海人、俳句の村越化石をハンセン病文学の三本柱と言った。「茶の花を心に灯し帰郷せり」「落葉踏み天を鏡と思ひけり」「涙また涼しよ生きてありにけり」。
1922(大正11)年静岡県生まれ。『獨眼』(’62年刊)所収。
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